彼女が電車で痴漢に遭った
付き合っている彼女が,昨日,電車で痴漢(ちかん)に遭(あ)いました。その場で叫(さけ)んだので,犯人は捕まったみたいです。彼女は警察で長時間事情を聞かれたのに,また明日も警察に呼ばれてるそうで,「ほんとうは行きたくない」と悩んでます。行かなくても特に問題はないんですか。あと,僕からは彼女に,これからは,電車に乗る時間を変えるとか,女性専用車を使うようにとか,スカートを少し長めにしたら,とアドバイスしたんですが,僕が彼女のためにほかにできることはありますか。
自分の大切なパートナーが痴漢の被害に遭ったと聞いて,
びっくりし,腹立たしい気持ちになりましたよね。
きっと彼女も,
気持ち悪さや戸惑(とまど)い,怒りや悔しさなど,
いろんな気持ちがわきあがっただろうと思います。
痴漢の被害を受けた人は,なかなか声を上ることができません。
そして,それをいいことに,犯人たちは痴漢をくりかえしています。
多くの10代の女性が,痴漢の被害に遭っています【★1】。
今回,彼女が勇気を出して声を上げたことは,
彼女自身を守るだけでなく,
ほかの人たちを守ることにもつながる,すごいことです。
痴漢の被害に遭ったことに,「それはいやだったよね」と,彼女の気持ちに寄り添うこと。
そして,勇気を出して声を上げたことに,「すごいね,大変だったね」と言葉をかけること。
それが,あなたが彼女のためにできること,彼女のためにしてほしいことです。
そういった共感は,
法律の手続のアドバイスと同じくらい,あるいはそれ以上に,
被害を受けた人の心の支えになります。
私たち弁護士も,犯罪の被害に遭った人の相談を受けるときには,
「共感すること」を,とてもだいじにしています。
電車に乗る時間を変えるとか,
女性専用車を使うようにするとか,
そういうアドバイスは,今後痴漢に遭わないようにするためには,たしかに意味のある対策かもしれません。
でも,今回彼女が痴漢に遭ったのは,彼女のせいではありません。
悪いのは,痴漢をした犯人のほうです。
相手に共感する言葉がないままのアドバイスだと,
それを言われたほうは,
「痴漢に遭ったのは,そうしなかった自分の落ち度だ」と,
責(せ)められているように感じられることがあります。
被害じたいで傷ついているのに,身近な人の言葉で,さらに傷ついてしまうのです。
「女性のがわにも,落ち度があったんじゃないの」。
この社会では,女性が受けた性的な被害について,そういう根拠のない偏見(へんけん)を言う人が,たくさんいます。
その偏見に傷ついている人が多くいるということを,ぜひ,心にとめておいてください。
そして,あなたの思いが,そういった偏見と同じと誤解されないように,
「アドバイス」よりも,彼女に共感する言葉のほうを,かけるようにしてください。
痴漢の犯人と疑われた人の,その後の処分には,いろんなパターンがあります。
その人が20歳以上なら,次のようなパターンがあります。
「人ちがいだった」とか「証拠が足りない」という理由で裁判にかけられずに終わったり【★2】,
「痴漢をしたけども,十分に反省しているし,被害者にも謝っている」という理由で,裁判にかけられずに終わることもあります【★3】。
痴漢をしたことを認めている場合には,
書類だけの簡単な裁判で,罰金を払って釈放される手続もあります【★4】。
簡単な裁判ではあっても,罰金も刑罰ですから,前科として扱われます【★5】。
「痴漢の程度がひどい」,「犯罪をくりかえしている」,「痴漢をしたことがはっきりしているのに,いろいろ弁解して反省していない」など,
いろんな事情から,ふつうの刑事裁判を受けることもあります【★6】。
あなたの彼女は,長い時間警察から事情を聞かれたのに,また警察に呼ばれている,ということでしたね。
裁判で犯人を処罰するためには,
「この人がこんな犯罪をした」ということが,しっかり証明できていないといけません。
その証明のハードルは,とても高いのです【★7】。
痴漢は,証拠が残りにくい犯罪です。
そして,混んでいる電車では,犯人の取り違えが起きてしまうこともあります。
やってもいない犯罪で処罰される「冤罪(えんざい)」は,あってはならないことです【★8】。
だから,警察は,犯人と疑われている人と,被害を受けた人,それぞれの言い分を,慎重に調べなければいけません。
あなたの彼女が,また警察に呼ばれているのも,そのためです。
でも,被害を受けたときのことを何度も長い時間聞かれるのは,とてもつらいことですよね。
被害を受けた人が,警察に話をするかどうかは,あくまで自由です。
彼女が「話したくない」ということであれば,警察に断ってもかまいません。
また,話すとしても,こちらの事情を説明して,警察にいろいろ配慮してもらうように求めてもかまいません【★9】。
もしかしたら,犯人についた弁護士から,彼女や彼女の親に連絡があるかもしれません。
犯人が,痴漢をしたことを認めていて,お金を払うことで謝りたい,という連絡です。
そういう話し合いを,「示談(じだん)」と言います。
示談は,法律的な約束ごとですから,
彼女がまだ未成年なら,相手の弁護士との話し合いは,彼女一人でするのではなく,彼女の親といっしょに進めていくことになります【★10】【★11】。
これから先,いろんな場面で,彼女がどのように対応していけばよいかについて,
犯罪の被害に詳しい弁護士からアドバイスを受けたり,その弁護士に依頼したりすることもできます。
あなたから彼女に,そういった窓口を伝えるのも,よいと思います【★12】。
被害を受けてつらい思いをしているパートナーの気持ちに,ぜひ,しっかりと寄り添ってください。
私は,痴漢をなくしていかなければならない,と思うとともに,
皆さんが,学校を卒業し働き始めてこれから先何十年もずっと,満員電車に乗らなければならない社会であってはいけないとも,思っています。
見知らぬ人どうしが,ぎゅうぎゅうにくっつくことに耐えなければいけない満員電車は,それじたいが,人間の暮らしとして,異常なことです【★13】【★14】。
ましてや,その中で,
痴漢というひきょうな犯罪が起きやすくなり,
その被害でつらい思いをする人々が,たくさんいて,
時には,痴漢の犯人に間違われて大変な思いをする人もいます。
混んでいる駅の中で,駅員に対する暴力や,人身事故も,多く起きています。
満員電車での通勤の負担が,過労死の原因になっているケースも,多くあります。
今回のことをきっかけにして,
満員電車が当たり前の風景になってしまっていてよいのか,
一人ひとりが大切にされる社会のありかたについても,
考えてみてほしいと思っています。
【★1】 平成22年1月8日から15日,4月15日から21日,9月6日から10日に,首都圏で検挙された痴漢のケースで,被害者は15~19歳が全体の約半分(49.7%)にも及んでいました。(平成23年3月警察庁・痴漢防止に係る研究会「電車内の痴漢撲滅に向けた取組みに関する報告書」)
【★2】 裁判にかけるかどうかを判断する人は,「検察官(けんさつかん)」です。「警察官」と発音が似ているのでややこしいですが,別の人です。検察官は,弁護士や裁判官と同じように,法律家です。警察と協力しながら事件を捜査し,ずっとつかまえるか外に出すかを決めたり,犯人の処分を求めて裁判所の手続をとったりします。裁判にかけないことを「不起訴処分(ふきそしょぶん)」と言います。その人が犯人でないとはっきりしたなら「嫌疑なし」,証拠が足りないなら「嫌疑不十分(けんぎふじゅうぶん)」による不起訴処分です。
【★3】 検察官は,必ず犯人を裁判にかけなければいけないわけではありません。これを「起訴便宜主義(きそべんぎしゅぎ)」と言います。
刑事訴訟法248条 「犯人の性格,年齢及(およ)び境遇(きょうぐう),犯罪の軽重(けいちょう)及び情状並(なら)びに犯罪後の情況により訴追(そつい)を必要としないときは,公訴を提起しないことができる」
本文のような不起訴処分を,「起訴猶予(きそゆうよ)」と言います。
【★4】 「略式手続(りゃくしきてつづき)」と言います。
刑事訴訟法461条 「簡易裁判所は,検察官の請求により,その管轄(かんかつ)に属する事件について,公判前,略式命令で,100万円以下の罰金又は科料(かりょう)を科(か)することができる。…」
同法461条の2第1項 「検察官は,略式命令の請求に際し,被疑者に対し,あらかじめ,略式手続を理解させるために必要な事項(じこう)を説明し,通常の規定に従(したが)い審判を受けることができる旨を告げた上,略式手続によることについて異議(いぎ)がないかどうかを確めなければならない」
【★5】 刑事訴訟法470条 「略式命令は,正式裁判の請求期間の経過又はその請求の取下により,確定判決と同一の効力を生ずる。…」
刑法9条 「死刑,懲役(ちょうえき),禁錮(きんこ),罰金,拘留(こうりゅう)及び科料を主刑とし,没収を付加刑とする」
【★6】 痴漢は,多くの場合,都道府県の条例(迷惑防止条例)に違反したとして処罰されます。条例違反の場合,罰金刑があるので,略式手続をとることができます。しかし,痴漢の程度がひどければ,刑法の「強制わいせつ罪」で処罰されます。強制わいせつ罪には罰金刑がないので,略式手続がとれず,ふつうの刑事裁判を受けることになります。なお,強制わいせつ罪は,被害者から「犯人を処罰してください」という「告訴(こくそ)」がなければ,刑事裁判をすることはできません(「親告罪(しんこくざい)」と言います。被害者が未成年の場合は親が告訴することもできます)。
(東京都)公衆に著(いちじる)しく迷惑をかける暴力的不良行為等の防止に関する条例5条1項 「何人(なんぴと)も,正当な理由なく,人を著しく羞恥(しゅうち)させ,又は人に不安を覚えさせるような行為(こうい)であって,次に掲(かか)げるものをしてはならない。 一 公共の場所又は公共の乗物において,衣服その他の身に着ける物の上から又は直接に人の身体に触れること。…」
同条例8条1項 「次の各号のいずれかに該当する者は,6月以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。… 二 第5条第1項…の規定に違反した者」
刑法176条 「13歳以上の男女に対し,暴行又は脅迫(きょうはく)を用いてわいせつな行為をした者は,6月以上10年以下の懲役に処する。13歳未満の男女に対し,わいせつな行為をした者も,同様とする」
同法180条 「第176条から第178条までの罪及びこれらの罪の未遂罪(みすいざい)は,告訴がなければ公訴(こうそ)を提起(ていき)することができない」
刑事訴訟法230条 「犯罪により害を被(こうむ)った者は,告訴をすることができる」
同法231条1項 「被害者の法定代理人は,独立して告訴をすることができる」
【★7】 最高裁判所第一小法廷昭和23年8月5日判決・刑集2巻9号1123頁 「元来(がんらい)訴訟上の証明は,自然科学者の用いるような実験に基(もとづ)くいわゆる論理的証明ではなくして,いわゆる歴史的証明である。論理的証明は『真実』そのものを目標とするに反し,歴史的証明は『真実の高度な蓋然性(がいぜんせい)』をもって満足する。言いかえれば,通常人なら誰でも疑(うたがい)を差挾(さしはさ)まない程度に真実らしいとの確信を得ることで証明ができたとするものである」
【★8】 実際に痴漢冤罪(えんざい)が問題になったケースとして,矢田部孝司・あつ子「お父さんはやってない」(2006年,太田出版)と,その実話をベースとした映画「それでも僕はやってない」(2007年,周防正行監督)があります。
【★9】 犯罪捜査規範10条の2第1項 「捜査を行うに当たっては,被害者又はその親族…の心情を理解し,その人格を尊重しなければならない」
同条2項 「捜査を行うに当たっては,被害者等の取調べにふさわしい場所の利用その他の被害者等にできる限り不安又は迷惑を覚えさせないようにするための措置を講じなければならない」
【★10】 親にチェックしてもらい,親のOK(=同意)をもらったうえで示談をするか,または,親に代わりに(=代理人として)示談してもらうことが必要です。
民法5条1項 「未成年者が法律行為(こうい)をするには,その法定代理人の同意を得なければならない」
同法824条「親権を行う者は,子の財産を管理し,かつ,その財産に関する法律行為についてその子を代表する。…」
【★11】 民法の一部を改正する法律(平成30年法律第59号)附則1条 「この法律は,平成34年4月1日から施行する」
民法の一部を改正する法律(平成30年法律第59号)附則2条2項 「この法律の施行の際に18歳以上20歳未満の者(略)は,施行日において成年に達するものとする」
改正前の民法4条 「年齢20歳をもって,成年とする」
改正後の民法4条 「年齢18歳をもって,成年とする」
【★12】 各弁護士会の犯罪被害者法律相談窓口 http://www.nichibenren.or.jp/contact/crime_victims/whole_country.html
法テラス犯罪被害者支援 0570-079714 (http://www.houterasu.or.jp/higaishashien/index.html)
【★13】 法律は,一人ひとりが,大切な人間として尊重されること,物や人形や奴隷ではなく,人間として大切にされることを,だいじにしています。
憲法13条 「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」
憲法18条 「何人(なんぴと)も,いかなる奴隷的拘束(どれいてきこうそく)も受けない。…」
1987年(昭和62年)に過労死で亡くなった八木俊亜さんは,亡くなる前のノートに,次のように書いていました(八木光恵「さよならも言わないで 『過労死』したクリエーターの妻の記録」45頁,双葉社)。
「人はただ奴隷的に存在する安逸(あんいつ)さになれてしまう。人間の奴隷的存在について考えてみよう。かつての奴隷たちは奴隷船につながれて新大陸へと運ばれた。超満員の通勤電車のほうがもっと非人間的でないのか。現代の無数のサラリーマンたちはあらゆる意味で,奴隷的である。金にかわれている。時間で縛られている。上司に逆らえない。賃金もだいたい一方的に決められる。ほとんどわずかの金しかもらえない。それも欲望すらも広告によってコントロールされている。肉体労働の奴隷たちはそれでも家族と食事をする時間がもてたはずなのに。」
【★14】 宮尾節子さんの詩「明日戦争がはじまる」は,「まいにち 満員電車に乗って 人を人とも 思わなくなった」という出だしで始まっています。 https://twitter.com/sechanco/status/425897118599901184/photo/1
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